忍者ブログ

   
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

71年のニクソン・ショック、73年、79年の2度にわたるオイル・ショックは、安定成長への移行、グローバル化の進展への対応を強く迫った。日本経済が曲がり角にあることを如実に示しだのが、1975年の赤字国債の発行である。それは金融面では、「2つのコクサイ化」という形で表れた。国債の大量発行と経済の国際化である。いずれも金融制度改革を迫る大きなインパクトであった。

このような状況を受けて、金融制度調査会は4年あまりにわたる審議の結果、79年6月、「普通銀行のあり方と銀行制度の改正について」の答申を大蔵大臣に提出した。この答申は、その取り上げられた内容の重要性や範囲の広さからいっても、また、これを作成するまでに投入された労力と時間からいっても、わが国金融史上画期的な労作である。

この答申に基づき、81年6月には新銀行法が制定された。それに先立ち、79年12月には外為法が全面改正されており、外貨関係法律の一本化、従来の原則禁止から、原則自由・有事規制へ大転換された。この頃のわが国経済は、高度成長から安定成長に転換し、新たな事態に応じた構造改革を求められていた。特に金融のグローバル化・情報化の流れは速く、それに適した金融制度・金融機関経営が強く求められていたのである。

80年代半ばには金融改革について、日米貿易摩擦に起因する新たなインパクトが加わった。具体的には、日米円ドル委員会報告書の出された84年から検討が始まり、87年12月に発表された金融制度調査会の「専門金融機関制度のあり方について」において、金融制度改革の方向が打ち出された。ここではわが国の金融制度の特色である専門制・分業制、すなわち金融業の垣根を取り払うことが主なテーマとなっている。

専門制・分業制による金融制度が整備されたのは、敗戦後わが国がまだ連合軍(実質的にはアメリカ)の占領下にある時代(1950年前後)である。戦前にはなかった銀行・証券の分離制度は、アメリカのグラス・スティーガル法を手本として、GHQの指導により47年に輸入されたものである。それに比して長短金融の分離は、わが国独自の工夫として(原型は独仏)整備されたといえる。

PR
臓器移植には、このような緊密な連携作業が必須であり、その目的を果たすためのチームーワークの確立が重要である。移植医の好奇心や名誉心などでできるような生やさしい医療ではなく、熟練した移植コーディネーター、移植ネットワーク担当者、医師、看護婦、事務担当者、さらに臓器の輸送に協力する人々などによる結束したチーム・ワークなしではけっしてできないのが臓器移植であることを認識することが大切なのである。

移植医が移植コーディネーターと一緒に、ドナーのいる病院と移植手術をする病院との間を最短時間で、しかも分単位の正確さで往復しなければ、せっかくの臓器移植も効果が弱まり、移植後の成績に芳しくない影響を与え、ひいてはレシピエントの生命を奪うことにもなりかねない。それゆえ、迅速で機敏な臓器輸送システムを確立しておくことが、どうしても必要である。

比較的にあまり遠くない距離の往復ですむようならば、ヘリコプターでの往復がよい。そのためには、臓器移植に関与する病院あるいはその近くにヘリポートを建設しておく必要がある。また、かなり長距離を輸送する必要がある場合、たとえば半径八〇〇キロメートル以内の病院で亡くなったドナーの臓器を輸送する必要のある移植手術実施病院のような場合には、病院の最寄りの飛行場に小型ジェット機を常備させ、病院と飛行場との間は、ヘリコプターで往復できるようにする必要がある。以上の制度や施設などが満足にない状態では、誤解のないガラス張りの臓器移植医療はなかなか進展しないであろう。

もし、元気なうちに「自分が死亡した場合には臓器提供をしたい」という意思を表明していたドナー候補者が死亡したと診断された時に、臓器移植コーディネーターが、レシピエント候補者の中にドナー候補者と医学的に組織適合性が高い患者を探し当て、ドナーの家族とレシピエントに連絡して両者の承諾を得た後に移植医に連絡したとする。

そして、ドナーの家族とレシピエントが臓器移植の実施を移植医に要請し、移植医が決断して臓器移植を実施することにしたならば、倫理的にも、法的にも、社会的にも、もちろん医学的にも、何ら問題がないといえよう。すべての関係者の納得と同意の上で実施される臓器移植によって、レシピエントの生命の質(QOL)が向上し、社会復帰して働ける可能性すら与えられるからである。
幸運であったが、しかし、コミちゃんは、あの軍隊で、人がいかに無力であるか、人がいかに愚かであるかを思い知ったに違いない。三八式歩兵銃に菊の紋章を刻んであるから、といって、なぜ、殺人の器具を天皇陛下のご分身だと言って崇めなければならないのか。心の中で、こんなもの忌むべき人殺しの道具ではないか、しかも、敵から身を護ることに役立つ前に、この重さが弱った体を疲労困慰させ、自分を殺すことになるかもしれない。

そして、食うものもなく、苛酷な行軍を強いられている兵士がそう思うのは当然だ。だかそう思っても、ご分身だから崇めているふりをしなければならない。ふり、ではなく本当にそう思っている兵士もいるが、そう思っていなくても、ふり、をすることをやめた者は、社会から落伍する。兵士は行軍から落伍しないうちは、社会からも落伍しないように努めるが、どたん場に立つと、どちらかを選ばなければならない。

コミちゃんは、早々に社会から落伍した。弾薬を捨て、銃を捨て、しかし、捨てた理由を正当化して言い張ったりはしない。重かったから、と言い、その話をしたら。駒田信二さんが、「そんな兵隊がいたから、ぼくたちは苦労したんだ」と本気になっておこった、と書いているが、駒田さんほんとに本気でおこったのかどうか。

コミちゃんのような人は、軍隊がなくなり、社会に帰って来ても、正義を唱えたりはしない。出世を望んだり、エエカッコシイをしようとしたりはしない。どう思われようと、どう言われようと、自分の流儀で孤独に生きる人である。そういう人は、他人を攻撃したり、自分を弁護するための口舌は用いないのではないか。そういう口舌を用いたくなると、冗談に紛らしたり、とぼけたりしてしまうのではないか。その羞恥は、他人には関係のないものになり、表面はとぼけ、自分の中でだけ深まって行く。

人はみんなそうだが、互いに似たところもあり、違うところもある。普通はそんなことはろくに考えずに付き合っているが、コミちゃんは私に、そのことを思わせる。似て非なるものと言うが、コミちゃんも、亡くなった駒田信二さんも、そして私も、コミちゃんの言うストリップおじさんである。私も、コミちゃんの言う男と女のすることなどもなく、あるストリップ嬢と、七、八年、付き合った。
生命の進化と大気の進化との関連で特に重要な点は、大気中の酸素濃度が今から二五億年前頃急激に増加したことである。この頃に多量の縞状鉄鉱石がつくられている。鉄は二価の還元状態では水に溶けやすいので、大気・海洋中の酸素濃度が低い段階では、イオンが海洋中に存在する。酸素濃度が高くなると鉄の二価イオンは三価の鉄となる。三価の鉄が水酸化物をつくり海底に沈澱する結果、縞状鉄鉱石がつくられたと考えられている。

この頃なぜ酸素濃度が高くなったかについて、その因果関係が明らかにされているわけではない。しかし遊離酸素がこの頃多量につくられたことは、なんらかの理由により光合成植物が繁茂し、光合成がさかんになったためで、生命の進化が大気進化に影響をおよぼしたよい例といえよう。

光合成生物としてこの事件の主役を演じるのは、ストロマトライトを形成する原始的らん藻ではないかと考えられている。ストロマトライトとは、古い堆積岩中に存在する層状で石灰質の構造のことである。長い間、浅海に梢けるなんらかの生物学的過程により形成された構造と考えられていた。

しかし、その詳細が明らかにされたのは一九六一年のことである。化石のストロマトライトをつくったのと同様な生物学的過程が、オーストラリアのシヤーク湾に現在も存在することが報告された。この構造はマット状の藻の群落によってつくられる。砂の小片が微生物マットの上に乗り、そこに捕らえられることによって層状の岩石化した構造が形成される。

なお地球大気に酸素が蓄積したという事実は、現在の地球環境問題を考えるうえでも示唆に富んでいる。すなわち、ある種の生命の異常繁殖が地表環境を変え、他の生命の進化に影響をおよぼすことを証明しているからである。我々人類は、生命の進化のなかで光合成生物の果たした役割を、現在演じつつあるのかもしれない。
加えて、その頃国王はかなり頻繁にゴルフを楽しんでおり、工事の進行状況は否応なく国王の目に留まった。それ故に、工事は順調に進み、新国立図書館は三年ほどで立派に完成した。後に人から聞いたところでは、内務大臣はこの新国立図書館を新しいお寺と見なしており、その建設工事を自分か今生で積める最後の、そして最大の善業だと考えていたとのことである。現在ティンプの中心部は、これといった魅力のない数階建ての鉄筋コンクリート構造の建物が雑然と林立しており、ブータンの近代化のマイナス面を象徴する恥部と化している。その北には、それとは対照的にブータンの伝統建築の精髄ともいえるタシチョ・ゾンが建っている。

この辺りには、ティンプの谷最後の水田も維持されており、少しは昔の面影が残っている。また隣接してゴルフ場があり、ティンプとしては例外的に緑が豊かな整備された区域である。国立図書館は、このゴルフ場を見下ろす位置に建っており、ゾンのウツエ形式の四階建ての書庫は、この一帯によくマッチしている。今でもティンプを訪れ、この辺りを通りかかるたびに、この建物の建設に関われたことを喜ぶとともに、自負している。いずれにせよ収納容量十分な書庫が完成し、マイクロフイルム設備および木版印刷用の版木等の害虫処理用煥蒸装置といったハード面は数年で完成し、図書館としての命でもある蔵書整理ができる態勢が整った。

その時点では、数千冊の蔵書は数冊の台帳に収蔵年代順に本の書名と購入時の価格が記されているだけで、書名・著者・分類といった項目からの検索はいっさいできなかった。当時としては、伝統的な図書館カードによる整理が一般的であったが、わたしは一挙にコンピュータによる目録作成に移行するのが、長期的には最も効率的であると判断し、その準備にとりかかった。ところが、当時チベット文字(ブータンの国語はゾンカ語で、チベット語ではないが、文字体系はチベット文字である)で処理できるコンピュータシステムはなく、さらにはブータンでは英語、ネパール語も公用語である以上、ネパール語文献の処理も必要であった。

そこで、多言語・多文字処理能力のあるコンピュータシステムの開発が必須となり、わたしはアップル社のマッキントッシュが最も適していると判断し、アップル社のプログラマーの協力を得てゾンカ語システムの開発を始めることになった。この作業がまた、予想以上に難しく、当初一年ほどで完成できると見込んでいたのが、二、三年と長引いた。そして基本システムは完成しても、新たなフォントの開発、目録のためのデータベースの構築といった課題が次から次に出てきて、結局終わりのない作業であることがわかった。

ところが思いがけずも、このシステムを最初に利用したいと申し出てきたのは政府系の『クェンセル』という週刊紙であった。それまでこの新聞のゾンカ語版は、手動チベット語タイプライター(電動でなかった)で打った原稿を切り貼りして紙面を作り、そこからオフセット印刷していた。一九八〇年代の後半にはその作業では効率が上がらず、新しい編集・印刷方法を模索していたところであった。そこで、ゾンカ語システムが一応の完成を見た一九八八年に一大決心をしてコンピュータを導入し、編集、レイアウト、印刷工程を文字どおり刷新した。他の国では、数十年かけていくつもの段階を経て辿り着いた方式に、手動タイプライター、鋏、糊という手作業から一挙に移行したわけである。これはブータン近代化の象徴的な例である。

ブータン政府観光局 公式サイト
ブータン政府観光局 日本語版公式サイトです。ブータン旅行をご検討の方へ、ブータンについての情報を掲載しています。

  
カテゴリー
Copyright ©  -- 21世紀の新しい農業について --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]