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それに対して、「いや弱い者が敗退していってこそ、市場経済の機能が発揮され、社会の進歩もある」との正論は、本音のところでは日本社会において人気がない。池田勇人通産大臣(当時)が言ったと伝えられる「貧乏人は麦を食え」とか「中小企業の一つや二つぐらい」というのは、そういう正論の一例である。

この表現はやや極端であるにしても、日本には社会全体にこのような発想を否定する雰囲気がある。したがって護送船団方式は、少なくともかつては世の中の要請であり、それは政治や行政の重要な役割であった。「政治とは治められる側の気持を汲むこと」(藤沢周平「蝉しぐれ」)などという言葉が、かつては日本人の気を引いたのである。

ただこのようなことを考えすぎると、グローバル化時代の激流に日本経済ごとおし流されてしまうことになる。今はあまり分別くさくならずに、思いきった改革をすべき時期である。市場の力が暴力に化さないよう市場を統御する術を模索するのはその先の段階にしても遅くはない。以下では、これまで時系列的に金融問題、金融行政の動きをふり返るなかで浮かび上かってきたいくつかの問題を、個別にとりあげて論じておきたい。

わが国の金融行政に対する批判の一つに、コーチとアンパイヤーを兼ねている、というのがあった。金融機関と一体になって進める指導行政と、金融機関と対立する立場で厳正な検査をする金融検査とを、同じ大蔵省でやるのはおかしい、というのが大蔵省分割論の原点であった。

しかし実際のところ、指導行政と金融検査を分離することには無理がある。たしかに行政の切り口に違いはあるが、相互の経験と情報を共有し合うことによって初めて、効率的な行政を行うことができる。専門的知識を持ちながらも視野の広い行政官を育成するためにもそれが望ましい。
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裁判所などは、挙げ句の果てに、現行憲法の条文からして「陪審制は憲法上の問題かおる」などということまで持ち出しました。しかし、この違憲問題についていえば、これは全くの筋違いといわなければなりません。

なぜなら、大日本帝国憲法第二四条では「日本臣民ハ法律二定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルルコトナシ」(傍点筆者)となっていたのが。日本国憲法第三二条では「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」(傍点筆者)と変わったため、条文からしても日本国憲法の方が陪審制がやりやすくなったと説明されています。それを「陪審員」は「裁判官」ではなく、陪審制は裁判官によらない裁判だから違憲である、などと唱えるのは、ほとんど言いがかりのようなものです。

ご承知の方もおられると思いますが、わが国でも大正から昭和にかけてのわずかな時期ではありますが、陪審法が存在しました。右の条文が存在した天皇主権の時代ですら、陪審制が可能だったのです。それが国民主権の憲法の下で、どうしてできないなどということになるのでしょうか? 戦後司法は「最高裁主権」になったと錯覚でもしているのでしょうか?

御用学者がいくら陪審制違憲論を展開していても、司法制度改革審議会の会長でもあった権威ある憲法学者・佐藤幸治先生も「合憲説でよろしい」と言っておられるのです。もはや憲法問題は決着していると考えるべきでしょう。
連立政権が羽田政権に代わってからも、与党の立場は揺れ動いた。神田厚防衛庁長官は九四年四月、北朝鮮の核開発問題への対応に関連し、集団的自衛権の行使を禁じているという従来の政府の憲法解釈について、「断定的にこうだとは言えない」と、再検討の可能性を示唆したが、後に「現行の解釈でやる」とこれを修正した。

また、同じ頃、柿沢弘治外相は、集団的自衛権の行使は違憲という政府解釈は「再検討する必要がある」と発言し、後に「踏襲する」と修正した。結局、羽田首相は五月の衆院本会議で、「集団的自衛権の行使は憲法上認められない」という立場を明言して、とりあえずは収拾を図ったが、今後もこうした「憲法見直し」「解釈の見直し」の動きが続くことは、十分に予想される。

これまで見てきた国連憲章と日本国憲法の相関関係を、ここで整理してみよう。戦後を三つの段階に分けてみると、第一期は制定期、第二期は冷戦期、第三は冷戦後の現在と、一応は区分できる。このうち第一期は、連合国=国連の体制が作られた時期に当たる。国連憲章では、集団的安全保障による強制措置を「矛」として、平和を実効的に確保しようという構想が打ち出された。

戦勝体制を戦後の秩序維持に持ち込み、枢軸国を敵国と位置づけた上で、将来の加盟に道を開く、というのがこの時期の国連の考え方だった。一方日本は、武装解除の対象となり、将来の侵略の可能性を絶つことによって、「平和国家」の仲間入りをすることが求められた。憲法第九条は、侵略戦争のみならず、自衛戦争を含めて戦争全般を放棄し、戦力不保持を宣言することによって、その連合国=国連体制に組み込まれることを表明したものと解釈された。

ところが第二期の冷戦体制に移行すると、連合国=国連は分裂し、安保理は機能しなくなった。集団的安全保障という屋台骨が成り立たず、当初のメカニズムは働かなかった。憲章第七章の国連軍に代わって結成されたのは国連平和維持活動であり、これは大国が直接関与しない紛争に、限定的、補完的に派遣され、紛争が熱戦に転化するのを食い止める働きをした。

しかし、実際の紛争は、憲章第五一条の「個別的・集団的自衛権」を根拠に頻発し、核抑止能力と絶えざる軍拡競争によって、かろうじて超大国同士の激突は回避されてきた。この時期の国連は、もっぱら憲章第六章の「紛争の平和的解決」に頼らざるを得ない存在であり、ここから、国連は「オリーブ」のイメージで語られるようになって行った。
以上のような例からもわかるように、各国はそれぞれ独自の消費特性と資本主義制度を持っていて、国内および国外でなんら不都合は生じない商取引を行っている。二一世紀の消費者にとって「アイデンティティー」ということが重要な価値観になると思われるが、そこでは他よりすぐれているという「排他性の論理」ではなく「自己主張の論理」として「アイデンティティー」が強調されるようになる。アイデンティティーは重要ではあるが、それを強調しすぎると、「普遍性」に抵触する。

アメリカ型資本主義、イギリス型資本主義、フランス型資本主義などと分類した中での共通項は「市場」である。これらの国々では国内市場での契約や商慣習と国際市場での契約や商慣習にズレはあっても、致命的なズレではないのである。そこには国内と国際を調整する変換器ができ上がっている。

たとえ、絶えず各国の間で交渉中にいろいろな臥龍を生み出したとしても、「国際基準」という判断基準に基づいて相互に納得できるような余地を見出しているのである。そして「国際基準」の特徴としては、一定の「普遍性」を持っているということが重要である。また「国際基準」白身も固定したものではなく、時代とともに変化していき、新しい概念や方法が絶えず取り入れられることも必要である。

国際社会の中で。価値観の多様化によって「アイデンティティー」が強調されるようになり、一方で「情報化」によって国際的な交流はますます広がっていく。その際には、逆説的にも考えられるだろうが、「普遍性」を持った国際基準が重要な要素になる。つまり、「国際基準」をもとにして行動しなければ円滑な経済取引ができなくなる可能性が生じるのである。


この時期は日本的経営の黄金時代であった。トランジスタラジオの時代とは違って、高級な工業製品でも、その生産量が世界の先頭を行くものが現れた。1980年には自動車の生産台数は1104万台と世界でトップになり、1983年には工作機械の生産額が世界最高となり、その60%がコンピュータ制御によるNC機であった。そしてガットは1984年の日本の工業製品の輸出額は280万ドル、世界の首位に立つと発表した。日本が経済大国ともてはやされたのも無理はない。

しかし日本の経済発展のもう一本の推進軸であった船舶や鋼材やエチレンなどの生産は1970年代以来低迷し、加工産業立国路線は耐久消費財の開発・大量生産により多く依存しなければならなくなった。そのうえ消費者は狭い住宅のなかに各種さまざまな家庭機械類を抱えたため、さらに新商品を買い込むモチベーションは低下せざるを得なくなった。

日本が経済大国と言われた時には、すでにその経済と商品開発には陰がさしはじめていたのである。初めての平和な5ヶ年計画の進行によって、中国の民衆は生活の豊かさを実感しはじめた。1981年のテレビの普及率は都市において100所帯当たり白黒57%、カラー0.4%にすぎなかったが、1985年にはそれぞれ75%、18%に向上し、ラジカセは13%から48%へ、電気洗濯機は6%から53%へと上昇した。

私は1983年に中国全土から集まった研究者を対象に瀋陽の東北工学院で技術論の36時間の集中講義を行ったが、外人用宿舎の私の部屋には国産品のクーラーがついていた。しかし冷凍機がゴウゴウと音をたてて回転するのには閉口した。翌年には青島で、これも全国から集まった各省の科学技術委員会の新任の主任・副主任に対して先端技術の動向について1週間ほど講義したが、宿泊していたホテルにはクーラーは無く、扇風機があった。しかしそれは首振り機構が壊れていた。

肩の痛みの治療のために人民病院に出かけたが、そこの小型扇風機も首を振らなかった。休みの日に観光船に乗って湾を一周したが、その客室の大型扇風機も同じ個所が壊れていた。首振り機構の設計ミスに違いなく、苦情を受け付けるアフターサービスの体制もなかったのであろう。1985年の都市の扇風機の普及率は75%に達していたが、中国の当時の耐久消費財の技術水準は、その風景に端的に示されていた。




  
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