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コダック、ゼロックス、ウェスチングハウスなどがその例である。だが買収はあまりうまくいっていない。買収は株主の富を増やすというよりも、むしろ破壊してしまっているという研究結果はかなり多い。自社のコアービジネスを成長させる展望と創造力のない゛管理職は、買収した事業でも展望や創造力を示すことはおそらくできないだろう。知識と能力がないと、多角化は悲惨な結果をもたらす。

特定の製品や市場に関してコアという言葉が使われている場合、コアービジネスの周りに小さく集まっていれば管理職は安心だろうが、成長の見込みはあまり明るくないだろう。どんな市場も永久に成長することはないし、どんな製品やサービスのカテゴリーも無限に広がることはない。もしもキヤノンが三五ミリカメラに自社の成長を託していたら、数年前にはゼニスのようになっていただろう。

もしもモトローラがタクシーの無線のような双方向ラジオに頼っていたら、ずっと前に成長は止まっていただろう。コアービジネスに固執していると、自社のビジネスチャンスの範囲を狭め、新しい競争の場をつくる可能性を自ら閉じてしまうことになる。関連のない事業の多角化とコアービジネスのどちらをとるかと言われても、これはかなり不毛な議論である。

我々は、コアーコンピタンスを中心に成長と多角化について論じてきた。コアーコンピダンスはI見かけ離れたように見える事業の集まりをつなぎ合わせる結合材である。コアーコンピタンスは、管理職がある事業から得られる洞察力や経験を、他の事業にも展開できるようにする共通語である。コアーコンピタンスを基盤として多角化を進めるとリスクは小さくなるし、投資も減り、優れた実践例を事業部間で動かす機会も増える。組織の選択に関する一般的な議論と、我々の考える新しい考え方について、以下にまとめてみる。

今日の企業の組織変革のプランはおおまかに、右のテーゼからアンチテーゼに進む試みとしてまとめることができる。ある問題(官僚主義、新しい積極的な取り組みを抑える、業績の悪い横道にそれた事業、顧客主導の不足)と別の問題(次善主義、縄張り意識、細分化、限界のある成長)を入れ替えても{発展の見込みはない。緊張、トレードオフ、逆説、矛盾を管理することが必要なことについてはいろいろと書かれているが、残念ながらほとんどは的はずれである。

あまり魅力的でない両極端の間に、無理やり中間点を見つけ出そうとしてはいけないし、両方をとって無理にバランスをとり続けようとしてもいけない。中道が目標ではなく、一段高い地位をめざさなければならない。本書を通して、我々は当たり障りのない単純な二者選択を避けるようにしてきた。長期と短期、野心とリスク、大きなビジョンである戦略と実験的な戦略との間を取り持とうとしてきた。このようにして、競合するいろいろな組織モデルの間を取り持とうとしているわけである。展望の代替案を出しているのではない。従来の展望を広げているのである。
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「OXFAMは人々の尊厳と、そして、彼らを圧し潰し、搾り取るような問題と圧力を克服する能力を信じている。OXFAMは、このような信念をともにする人々、いかなる人種、性別、宗教、政治にかかわらず、衣食住とまっとうな生活という基本的人権のために活動する人々のパートナーである。もし平等に分かち合うなら、世界の資源はすべての人々のBHNを満たすに十分だと、私たちは信じている」カンプチアで知り合ったIバをはじめアジアの国々で出会ったOXFAMのすぐれたワーカーたちはこのような信念に支えられて、その国の人々と苦楽をともにしているのではないだろうか。英国病などとけなす日本人の方が、人間として大切な何かが欠けている気がした。

韓国人被爆者に西ドイツから援助の手がさしのべられていると聞いたときには、日本人として複雑な思いにかられた。八〇年五月、民主化を求めて市民たちが立ち上がった韓国の光州事件の犠牲者遺族たちにやはり西ドイツから援助が届いていた。両方とも、キリスト教系の海外援助市民団体「世界のためのパン」からだった。フィリピンでも、マニラ最大のスラム、トンドの住民組織をこの団体が支援していた。両国の独裁政権を日本政府は巨額の援助で支えてトたのだが、そのような政権に苦しめられ闘ってトる民衆の運動を世界のためのパンはサポートしていたのだ。

八六年二月、タイのバンコクで開かれたインドシナ三国への援助のあり方を討論する「インドシナーワークショップ」(【世界教会協議会=WCC】と「アジアキリスト教協議会」〔CCA〕共催)に、世界のためのパンのディレクター、ハンスーオアナの場合は逆に、日本政府は政治的理由でベトナム、カンプチアに援助をストップしており、その両国を世界のためのパンは援助しているのだ。

「長い戦争に痛めつけられたあげく、その傷痕に呻吟する人々を人道的な立場で助けるのはキリスト教精神からいらても当然のことだ」と、世界のためのパンをはじめ、インドシナ三国で援助活動を続けている欧米の十余のキリスト教系NGOの代表が、このワークショップに集まった。だが同じアジアの日本のキリスト教会からは来ていなかった。バーン博士は体の一部が麻痺している身障者だが、ベトナム各地の農村をまわってきたところで、ベトナムの人々の苦痛、窮状を生々しく伝え、援助の必要性を訴えていた。

会議でカソプチアの開発のあり方やカンプチア民衆の実情を国際世論にどう伝えるか、など真剣な議論を聞きながら、たった一人の日本人の私は居心地が悪かった。独裁政権には巨費をつぎ込みながら、社会主義政権には援助を拒む日本政府と、そのどちらの国の民衆にも援助する西欧の民間団体1日本の宗教団体はベトナムやカンプチアから出て来た難民の救援には熱を入れても、イデオロギー上の理由からか、政府の方針に従うためか、政治体制の違うこれらの国の中にとどまっている民衆には手を差しのべていなかった。

「住宅は人格の一部」住宅に手厚い助成のある国の考え方とは。西ドイツで、ドイツ人の家庭を訪問すると、必ず、自分の家の中を案内して、あちこちの部屋をみせてくれる。これは、どこの家でもそうである。みな個性的な住み方をしていて、人生を愛するように住宅を愛している。住宅は人格の一部なのである。このことはドイツ人の労働時間の短さと表裏一体の関係にあり、帰宅後や上日に、自分でゴツゴツと住宅を改造したり、部屋を改装したりして、ゆったりと美しい住宅で人生を送ることを幸せの第一条件にしている。

このような事情は東ドイツも似ていて、社会主義圏は貧乏、とけいべつしている日本の方が、はるかに貧しい。郊外の家庭菜園に手づくりで建てられている小屋の方が日本の住宅より立派だと驚いた日本人もいるくらいだ。東ベルリンの都心から電車で十五分ほど離れたところにあるテールマン公園団地は、「酔っぱらって帰ったときまちがうような」箱型の画一的集合住宅ではいけない、という考えから、赤レンガの事務所、パブや劇場、アトリエ、集会場、バラの花に囲まれた大きな池、車椅子で出入りできる通路、点字のエレベーター表示もあり、一割が老人住宅で看護婦もいる。日本よりはるかに高レベルの勤労者公営住宅である。家賃は収入の六%である。

西ドイツでは、産業政策については投資減税、民活方式をとったが、住宅と都市環境については国家が大きく肩入れして、所得減税とともに百年間の無利子金融政策、家賃補助政策(貧しい人を低家賃集合住宅のIカ所に集めないで、一般の住宅に住まわせて家賃の補助をする)、および公的社会住宅の建設を行って、「住宅建設の奇蹟」をはたした。全住宅の四割は公的資金で建てられている。

西ドイツの都市計画は「農村と都市の結婚」といわれるように、都心から三十分も電車でゆけば、農村地域がひろがり、緑がいっぱいになる。市民にとって農産物は新鮮で、農民も都市の文化を利用でき、一極集中をさけた国土計画が見事に機能している。また西ドイツの国公有地は国土全体の約三割に及び(年々ふえている)、各地方自治体有の上地も多い。公共施設や公共住宅が建てられるように、かなりの余裕をもって公有地が確保されている。

スウェーデンでも公的住宅、協同組合住宅が多く、約四割の住宅が、そのどちらかの所有になっている。七十五平米の標準的アパートが五万円の家賃で、日本のように公営住宅が低所得者向けのみに作られているのとは違い、すべての国民が利用できるものになっている。

収務総長は国連の主要な六つの機関の一つだとはいえ、あくまでも総会ならびに理事会の決定の履行者であり、その決定の枠外に出ることは許されていない。もちろん、決定自身しばしばあいまいであるから、事務総長の解釈や選択はあるていど避けられない。また多くの場合、かれの具休的状況での判断を期待しながら、決議は時として意識的にあいまいに作成されるのが実情である。

「事務総長は事務長であるよりは将軍たれ」といったものに対して、リー総長は、事務総長が師団なき師団長であることを指摘したといわれる。事務総長の国際社会にもつ職務は、一国の宰相のそれに類似しているともいえるが、かれをいつでも支持する与党や利益団休にあたるものが総会の中に形成されているわけではない。

また一国の政府が、歴史や文化の共通性にもとづく特定の政治社会に根ざしているのに反し、事務総長があてにできるほどには国際社会は統一的な条件をそなえていない。与党や支持団体にあたるものが存在しないことは、政治的圧力の武器をもたない意味では事務総長の弱点になるが、その反而かれに大きな行動の自由、表現の自由があたえられる意味ではかえって利点ともいえる。かれの意見が党派的なものでなく、国連憲章にもとづくまったく個人的なものである点が、高く評価されることがよくある。

事務総長が現実から政治的に遊離したり孤立したりする危険は、主な加盟国の国連代表や外相とたえず接触を維持することによって避けられよう。スエズやっンゴの時のように、派兵国からなる諮問委員会を、かれの下に設立することも、接触を保つ一つの方法である。しかし、なんといっても事務総長を終局的に支えるものは、加盟国の一致した信任の念であり、かれがまったく私心なく公正に事に処していることへの信頼感である。かれの影響力、指導力はこの心理的基盤をおいて他にない。

国際的危機に際し、通常の外交手段による解決が見出されなかったとき、つまり伝統的な外交に空白が生じたとき、国連が新しい焦点として浮び上ってくると、そこにおける協議と交渉の中心として事務総長が発揮できる影響力はまことに大きい。しかし、かれの影響力は主として非公開の、いわば国際外交の私的回路を通じてなされる場合にもっとも大きい。逆に、その政策を公表することによって国家政策におよぼすことのできる圧力は限られている。



事務総長が、国連憲章のなかで現実の運用において、もっとも創造的に機能した制度であることについて異論は少ないだろう・その成功の理由としてヽ第一に、いままでその職についた五人がいずれも傑出していて、すぐれた見識と決断力をもって行動したことがあげられよう。しかしそれにもまして大きな理由は、安保理事会や総会などの国連の他の機関が、最初に考えられていたように活動しなかったために、いろいろな仕事が事務総長に押しつけられることになったことである。

安保理事会で五大国がもっと協調していたならば、また総会において一〇〇を超える加盟国がもっと統率を保って行動していたならば、事務総長になんでもまかせる必要はなかっただろう。総会や理事会からの大幅な委任を受けた事務総長は、多くの場合与えられた仕事を見事になしとげたので、さらに多くの職務を引受けさせられることになった。「それはダグ(ハマショルド)にやってもらえばよい」スエズ戦争以後の国連加盟国のやや安易で逃避的でさえある態度は、このような合言葉に要約されていた。

また、事務総長がひきいる国連事務局を国連の執行機関として見るとき、その責任の拡大は国連全体の活動範囲がひろがってゆくことの必然的な帰結であるということができる。平和維持の面では、世界の各地に国連警察軍や国連監視団が派遣されている結果、その指導や管理などの日々の決定において敏速かつ的確な処理が望まれるが、これはどうしても事務総長にまかせられなければならないことになる。また経済社会面において、国連を通じる援助や技術指導、計肉の作成などの仕事が増加してゆく現在、実施面での具体的な責任は、どうしても事務局が負うことになる。

近代国家に見られる立法部門に対する行政部門の比重の増加という傾向は、国際機構においても同じように見られるのであり、優秀な国際官僚組織の上にたつ事務総長のイヤノアチブや決定は、きわめて重要なものになってくる。以上のように、事務総長の創意と政治的決断が客観的に要請されてくるにつれて、その権力の限界もまた認識されてくる。英断をもって知られたハマショルドにしてさえ、一九六〇年八月、コンゴ問題に関しルムンバ首和と意見が対立するにがって、安保理事会から再度かれの政策を支持する明確な意思表示を求めなければならなかった。
  
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