忍者ブログ

   
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

揺れ動く政府解釈
連立政権が羽田政権に代わってからも、与党の立場は揺れ動いた。神田厚防衛庁長官は九四年四月、北朝鮮の核開発問題への対応に関連し、集団的自衛権の行使を禁じているという従来の政府の憲法解釈について、「断定的にこうだとは言えない」と、再検討の可能性を示唆したが、後に「現行の解釈でやる」とこれを修正した。

また、同じ頃、柿沢弘治外相は、集団的自衛権の行使は違憲という政府解釈は「再検討する必要がある」と発言し、後に「踏襲する」と修正した。結局、羽田首相は五月の衆院本会議で、「集団的自衛権の行使は憲法上認められない」という立場を明言して、とりあえずは収拾を図ったが、今後もこうした「憲法見直し」「解釈の見直し」の動きが続くことは、十分に予想される。

これまで見てきた国連憲章と日本国憲法の相関関係を、ここで整理してみよう。戦後を三つの段階に分けてみると、第一期は制定期、第二期は冷戦期、第三は冷戦後の現在と、一応は区分できる。このうち第一期は、連合国=国連の体制が作られた時期に当たる。国連憲章では、集団的安全保障による強制措置を「矛」として、平和を実効的に確保しようという構想が打ち出された。

戦勝体制を戦後の秩序維持に持ち込み、枢軸国を敵国と位置づけた上で、将来の加盟に道を開く、というのがこの時期の国連の考え方だった。一方日本は、武装解除の対象となり、将来の侵略の可能性を絶つことによって、「平和国家」の仲間入りをすることが求められた。憲法第九条は、侵略戦争のみならず、自衛戦争を含めて戦争全般を放棄し、戦力不保持を宣言することによって、その連合国=国連体制に組み込まれることを表明したものと解釈された。

ところが第二期の冷戦体制に移行すると、連合国=国連は分裂し、安保理は機能しなくなった。集団的安全保障という屋台骨が成り立たず、当初のメカニズムは働かなかった。憲章第七章の国連軍に代わって結成されたのは国連平和維持活動であり、これは大国が直接関与しない紛争に、限定的、補完的に派遣され、紛争が熱戦に転化するのを食い止める働きをした。

しかし、実際の紛争は、憲章第五一条の「個別的・集団的自衛権」を根拠に頻発し、核抑止能力と絶えざる軍拡競争によって、かろうじて超大国同士の激突は回避されてきた。この時期の国連は、もっぱら憲章第六章の「紛争の平和的解決」に頼らざるを得ない存在であり、ここから、国連は「オリーブ」のイメージで語られるようになって行った。
PR
  
COMMENT
NAME
TITLE
MAIL (非公開)
URL
EMOJI
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
COMMENT
PASS (コメント編集に必須です)
SECRET
管理人のみ閲覧できます
 
カテゴリー
Copyright ©  -- 21世紀の新しい農業について --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]