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カテゴリー「日記」の記事一覧
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太った原因は食生活にあった。おやつはインスタントラーメン。両親は共働き。お母さんは帰宅後、手早く夕食を作ろうとして、いつも食卓には揚げ物などのおかずが並ぶ。お母さんは「今まで好きな物を好きなだけ食べさせていた。身体の状態が心配なので、一度病院へ連れて行きたい」と話していた。正月が明けてすぐ、涼介くんはお母さんに伴われて、都立広尾病院へ向かった。ここで、小児肥満や生活習慣病の専門治療を受けるのだ。涼介くんの検査結果は、体重八五・八キロ、体脂肪四三・九%。問題の腹囲は一〇六センチもあった。基準値を二六センチもオーバーしている。血圧も下が八六あって、これも一六オーバー。子どもにはほとんど付かないはずの内臓脂肪が一三・六ミリも付いていた。

涼介くんは、メタボリック症候群予備軍と診断された。主治医の小児科、原光彦先生はさらに気になるところを告げた。「太りすぎは間違いありませんね。問題は、お腹が空いた時の、インスリンの値が二七・七もあることです。正常値は一五までなんです。糖尿病の一歩手前と言えます」涼介くんは、小学生にしては深刻な状態である。食生活を改善し、運動をするように指導された。原先生は、今が大事と強調する。「子どもの時に、生活習慣を良いものにしておけば、一生病気にかかりにくい生活ができる」

それから、涼介くんは生活改善に取り組み始めた。少年野球が終わってから全く運動をしていなかったが、お母さんにうながされて縄跳びをするようになった。お母さんは『低インスリンダイエット』などの本を買い込んで、食事の研究を始めた。食卓には、揚げ物は姿を消し、白身魚や野菜中心のおかずが並ぶようになった。糠味噌の漬物も作り始めた。ご飯も四分の三は玄米にした。これだと、よく噛んで食べるようになるので、早食いの防止にもなる。三月に入って、涼介くんの体重は四キロ減って、八一キロになっていた。再び広尾病院を訪れて、診察を受ける。原先生は「体重は減ってきたけど、インスリンはあまり下がってないね。運動をすると、かなり良くなるという報告もあるから」と、もっと身体を動かすことを勧めた。四月に中学に進学した涼介くんはごアニス部に入ることに決めた。メタボリック脱却日は近い。     

いま特に地方で、医者不足が深刻化している。最近の一〇年間で、外科医は約八%も減った。産婦人科医にいたっては、一五%も減少している。医師がいないために、診療を一部休止した病院は、この四年間で全体の一五%を超えた。都会では施設の整った病院で高度な医療が受けられる一方、地方ではどんどん病院が閉鎖されて満足な診療さえ受けられなくなっている。この医療格差が拡大していけば、地方はますます住みにくいものとなり、過疎化の進む地域が出てくることも予想される。

そんな医療格差を解消するための切り札として注目を集めているのが、遠隔医療である。医療の現場ではいま、目覚ましい進歩を遂げる通信技術やロボット技術を利用した遠隔医療への取り組みが始まっている。北海道稚内市。日本最北端の街である。人口はおよそ四万人。これはピーク時である三〇年前に比べ、一万五〇〇〇人も減ったことになる。この街に、病気と闘う女性がいた。山田美代子さん、五七歳。山田さんは、糖尿病の合併症で、このところ急激に視力が低下していた。左目の視力は〇・〇四しかない。建設会社に勤める夫と二人暮し。子供はいない。山田さんの視力が弱ってからは、全ての家事を夫が引き受けている。

山田さんは稚内で唯一の総合病院であ藻市立稚内病院に通院している。山田さんは二〇年ほど前から、糖尿病の治療を続けてぎたが、病気が進行し、恐れていた合併症が目に出てきてしまっていたのだ。病名は、糖尿病網膜症。この病気は、網膜の血管がボロボロになって、ついには破れ、失明に至るという恐ろしいものだ。日本では毎年、この病気で約三〇〇〇人が失明している。山田さんの網膜も、血で濁っていた。主治医の山口亨医師は、困っていた。「今後病状が進行すると、失明に至る危険性があるほどの状態。しかし、今の状態であれば、稚内の眼科では治療が難しい」山田さんの病状では高度な設備と医療技術が必要だったのだ。

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商売を始めてまもないころ、幸之助は当時つくっていた二灯用差し込みプラグを東京でも売りたいと考えた。そこで、それまで一度も行ったことのない東京へ出かけ、地図を片手に一日中問屋をめぐり歩いた。初めて訪問する問屋で、大阪から持ってきた商品を見てもらう。「いかがでしょうか。売っていただきたいのですが」問屋は商品を手にし、それをためつすがめつじっくりと調べてから、幸之助の顔を見て言った。「きみ、これはいくらで売るのかね」「原価が二十銭かかっていますので、二十五銭で買っていただきたいのです」「二十五銭か。それなら別に高くはない。高くはないけれども、きみは東京で初めて売り出すのだろう。そうであれば、やはり少しは勉強しなければならないよ。二十三銭にしたまえ」こう言われて幸之助は、東京での販路をぜひ開拓したいし、初めて東京に売りに来たことでもある。だから、この要望にこたえよう”と思った。しかしつぎの瞬間、そうさせないものが心に働いて、こう答えていた。

「原価は二十銭ですから、二十三銭にできないことはありません。しかし、ご主人、この商品は私を含めて従業員がほんとうに朝から晩まで熱心に働いてつくったものです。原価も決して高くついていません。むしろ世間一般に比べれば相当安いはずです。ですから、二十五銭という価格も決して高くはない、むしろ安いと思うのです。もちろん、ご主人が見られて、この商品は値段が高いから売れないだろうと考えられるのであれば、それはしかたがありません。しかし、そうではなくて、これで売れると思われるのであれば、どうかこの値段でお買いあげください」じっと聞いていた問屋の主人は、「よしわかった、きみがそこまで考えているのなら、二十五銭で買うことにしよう。もちろんこの値段は高くはない。これで十分売れると思う」と言って、持っていった商品を値引きなしの言い値で買ってくれた。

昭和三十三年ごろのことである。経営状況の報告のために本社に呼ばれた扇風機事業部長は、幸之助に、「先月の決算はどうか」ときかれ、胸を張って答えた。「赤字です」当時、扇風機は夏物季節商品の中心で、生産は年中行なっているが、出荷は三月ごろの年一回で、売上げの最盛期は六月から七月であった。したがって、出荷も売上げもない月は赤字で当然と考えていたのであった。しかし、その言葉を聞いた幸之助の目が光った。「きみ、赤字とはたいへんなことやな」事業部長を真正面から見据えて、幸之助は言った。「きみはここに来るまで、どの道を歩いてきた。小さくなって、すみのすみを歩いてきただろうな」道は税金でつくられた公道である。赤字を出している事業部長は、道を通るにも通り方がある、身を縮めて通れというわけである。

「赤字についての感覚を、このときほど深めたことはありませんでした。扇風機という季節商品だけでは事業は成り立たない、年中売れる商品を考えなければならないという課題を与えられたのだと、私はそのとき考えました」それからまもなく、事業部長は、年中商品として換気扇の開発に着手した。第二次世界大戦が終わった直後のこと。松下グループのある会社社長は、戦時中に陸軍や海軍に納入した商品の売掛金が回収できず、毎日資金繰りに追われていた。社員への給料も月四回に分割せざるを得ない状態で、一般株主には配当金を払ったが、大株主・幸之助への配当は待ってもらっていた。

新しい年の一月二日、兵庫県宝塚の旅館にいた幸之助から電話がかかった。正月早々のことでもあり、「いっしょに飲もう」という誘いかと思いつつ受話器を取ると、「すぐにここへ来るように」とのきつい言葉である。〃何かあったのかな”と考えても、思いあたるふしはない。ともかくも急いで駆けつけた。「きみ、なんで株主の私に配当金を支払わんのや。その責任はもっぱら社長であるきみにあるぞ。そんなことでは社長は務まらん」「軍が金を払ってくれないんです」「それは社員の言う理屈や。社長というものを何と心得とるのか」確かに、幸之助は身内でぼあっても、株主であることに変わりはないし、株主に配当を支払う責任は自分にあった。思いつめて、枝ぶりのよい松でもあったらと思うほどの心境で帰路についた社長は、帰宅してから気づいた。



なぜそれほどに時間がかかったのかというと、現場の人が上司の判断をもらおうとしたが、連絡が取れなくて時間がかかったそうである(NHKの「イブユングネットワーク」の報道による)。市民はしばらくの間、カセイソーダが多く混じった水を使っていたことになる。もしもっと毒性の強い物質が混じっていたらと思うと、ゾッとするようなケースである。北海道のトンネル崩落事故のときも、発破をするという方針が決まるまでに時間がかかりすぎているし、一日にI回しか発破ができないというのも、いかにももどかしい感じがした。発破の方法にも、報道によれば専門家の知識が十分に生かされたかどうか疑問だと言われている。

すなわち「相次ぐ岩盤爆破の失敗を受け、建設省が派遣した爆破や岩盤除去の専門家が到着したのは三回目の爆破一時間半前。しかし開発局には専門家に示す図面すらなかった。対策本部長は北海道開発局の出先機関である小樽開発建設部のさらに下部組織の小樽道路事務所長であり」(『読売新聞』二月十八日付)、「権限が弱く、現地での横の連絡とともに、開発局内での意思決定も遅れがちになった」(『朝日新聞』二月十八日付)。事故後五日目にして開発局建設部長が本部長に交代した。これなどはリーダーの選び方に問題があったとしか思えない。

以上、どの例をとっても、われわれ日本人の危機即応体制に大きな問題があることを示している。いったん事が起こったときには、誰が判断し責任を持って指令を出すのかということがはっきりしていなかったり、その人に連絡が取れないときには次の誰が判断してよいなどという責任体制がはっきりしていない。またはっきりさせなければならないという意識もない。最高責任者のはずの政治家は官僚任せ、官僚は現場任せ、現場は上司の指令待ち、ということでは、誰も責任を持って判断する人がいない。結果は被害者だけが苦しめられるということになってしまう。

こういう不幸なことが起きる原因は二つあると思う。どちらも日本人特有の精神構造ががらんでいる。一つは何もしないことに対してはあまり批判されないが、何かをして失敗すると辞職させられるほどに非難が集中するという体質。厚生省のエイズ対策にしても、大蔵省の住専対策にしても、必要なことをしなかったことに対しては、辞職要求などという形での責任追及はまずなされない。六八五〇億円もの税金を使うことにするのなら、それほどの負担を国民にかけるとなると、当然刑事責任が問題になりそうなのに、借り手や貸し手や監督官庁の刑事責任はなかなか問題にされない。だから責任者はなるべく何もしないという形での保身に走ることになる。

第二は、リーダーの選び方が、人格と能力を基準にしてなされていないという問題。コネや人間関係で選ばれたり、年功序列で地位についていたりする。たとえ能力で選ばれたとしても、その能力が記憶力を中心にした学力だけで、最も大切な判断力と決断力はほとんど考慮されていない。大切な地位には能力のある人を選び、十分に腕をふるってもらおうという意識がないばかりか、逆に能力のある人の足をひっぱったり、いじめたりするという体質が根強い。これは民主主義のはきちがえの悪平等主義も影響しているのであろう。

そこで各市町村では、条例によって個別相談による「助成金交付の要綱」を作成したり、「無利子貸し付け」などができるようにしている。したがって、この点についてはケアマネージャー、あるいは地域の民生委員に、このような地方条例による助成制度があることをしっかりと周知徹底することが肝要だ。ただしこの助成額は総額としてはかなり小さいものとなるであろう。たとえば人口一〇万人程度の地方都市で、介護保険の財源の総額が三〇億円とすると(図2-4)、自己負担分の総額は最大限で三億円である(実際には限度額目一杯のサービスを使わない人もかなりいる)。サービス利用者のうち二〇%が自己負担分を払いかねるとして、その総額は六〇〇〇万円、その七割を助成するとして四二〇〇万円である。

この程度の都市の年間予算は普通四〇〇億円以上だから、金額的には実に少ない。「バラまき福祉」として評判の芳しくない「敬老見舞金」を廃止するだけでも充当できる金額だ。ただし、この助成については、中間所得階層の市民にも「あなた方の拠出する税の一部で、このような方々の負担軽減をはかることに同意して下さい」という問いかけがあってしかるべきである。ところで自己負担にまつわる懸念を完全に払拭しようとしたら、自己負担をゼロにすればよい。いわゆる「無料化」だ。財源的にはこれは不可能ではない。財源の総額のうち一〇%だけを、保険料と租税に散らして上乗せすればよいだけである。

しかし、およそ世の中で、公費で生産設備を用意し、社会サービスとして市民に普遍的に提供しているもので「無料化」されているものはあるだろうか。電気代、水道代を「無料化」したら、おそらく各家庭で際限ない無駄使いが起こる。このようなサービスにおいては、「応益負担」つまり使った分に応じて、一定割合でコストを負担する。そこから公的サービスについてもコスト意識が生まれて、節度ある利用意識が生まれる。

介護サービスも同様である。措置制度のようなスティグマを一掃し、ニーズを解放することを意図した普遍的なサービスにおいては、効率的で適切かつ節度ある利用のしくみは不可欠である。一定割合の「負担」は、財源の拠出者の観点にたてば、利用者の節度を促すという意味で、積極的に肯定されるべきものだという点は押さえておくべきだろう(ただし、一〇%という負担の割合が適正かどうかの議論はあってよい)。

ちなみに、一九九九年十二月に参議院で、介護保険の円滑な実施のための意見聴取を行う公聴会があった。筆者も参考人として出席したが、この問題に関して同席していた市町村長たちが、「そもそも一万円とか二万円とかの自己負担を払えない所得そのものが問題の根源だ」という回答をしていたが、まったくその通りである。このような市民は、介護保険の自己負担によって生活が脅かされるというよりは、昨日も今日も明日も、極端な低所得のために生活のすべての局面において危機的状況にあるはずだ。問題の本質は所得政策にある。

華僑の対中国投資は、必ずしも自己資金による直接投資方式をとるとはかぎらない。ホンコンを経由し、対中国輸出(商品)による、いわば「水増し」方式がとられているという話を現地で耳にした。つまり中国大陸に輸出する商品(機械など生産手段とは限らない)の価格を大幅に引上げ、たとえば一〇万ドルを二倍の二〇万ドルに水増しして、この水増し分すなわち一〇万ドルを中国での投資に残すというやり方があるという。

この方式でいけば、かりに投資計画がその後うまく軌道に乗らなくなった場合、そのロスを自ら被ることなく、結局、水増しによるところの、中国政府の外貨を横取りすることによって全額回避できるという、華僑一流のしたたかさがここに看取できるのである。このやりくりの仕方は、私金融の一変形を示すものといえるが、華僑資本の性格の一面をよく表わしていると思う。

中国における外国資本投資は、近年来中国の対外開放政策によって刺激され、一〇〇億ドルを超えたといわれるが、そのうち民間直接投資が四〇億ドルほどと思われる。その半分以上が華僑による投資とすれば、二〇億ドルほどが中国の人民銀行(中央銀行)所有の外貨流出ではないかと推測される。ホンコン経由の対中国再輸出がここ数年来急速に増大し、八五年には前年比六四%増の四六〇億HKドル(五七億米ドル)に達していることは、華僑による対中国水増し投資と無関係ではあるまい。

いうまでもなく、この対中国水増し投資の背後には、ホンコンが私金融の国際中継基地としての条件(組織)をつねに用意していることを忘れてはならない。ホンコンには歴史的に、出身地を営商集団の形成に固く結びつける、いわゆる幇が散在し、カントンパン テイオチユウパン ホツケンパン シャンパイバンいわゆる広東幇、潮州幇、福建幇、上海幇などが、特定分野の商取引に勢力基盤を保っている。たとえば米穀取引に対し、商才に富んでいる潮州幇は、タイで最大の勢力をもち、タイの金融・経済を牛耳る陳弼臣一族(陳族系財閥)がある。その陳族系が主宰するバンコク銀行は、ホンコンのほか、台北・東京・シンガポールークアラルンプール(マレーシア)・サイゴン(一九七五年まで、南ベトナム)・ロンドン等海外に支店網をもち、その傘下に多数の貿易取引・運輸・保険会社を収めている。

東南アジア各地には、幇を基礎にした商業組織が散在し、それらはいずれもホンコンに特定の金融組織をもっていることは常識になっている。いま一つは、金取引における華人の勢力である。ホンコンは金取引高において、すでに七〇年代なかばニューヨークを凌ぎ、ロンドンーチューリヒと並んで、世界三大金取引センターの一つにのし上がってきたことはよく知られているが、いまからほぼ八〇年前から華人による金銀取引協会が発足され、現在でも一九三社が会員になって、九九・九五%の純金トロイオンス(米ドル建)の取引に参加していることはあまり知られていないようである。

ロンドンとの直接取引網をもち、また鋳造冶錬プラント設備をも用意しているので、華人社会の金取引がここで集散される。利昌金舗(胡鴻発氏)は、その中でリーダー的地位にあるといわれるが、その金融活動はさだかでない。一般にいって、ホンコンでは金飾(ダイヤ・時計など高価飾品)店は同時に民間外貨両替の業務を兼ねており、その両替レートは、市中銀行と比べてはもとより、一般に割高なホテルのフロントに比べてもべらぽうに高いが、夜遅くまで営業しているので便利である。また、金の取引と直接からんでいることもあって、私金融の格好の活動基地になりがちである。

この金飾商店はホンコンでどのくらいあるのか。質屋・両替店を含めてゆうに1000店は越えよう。しかし、繁華街のいたるところに林立していることは、シンガポールと違って、その庶民性を窺える。私金融の国際的中継基地としての条件は、一つはこの金飾取引の普遍性と庶民性にあるのかも知れない。

  
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