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カテゴリー「日記」の記事一覧
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一九八一年秋の安保理事会では、次期事務総長候補をめぐって、ぬきがたい対立が生じた。タンザニアの気鋭の外務大臣サリムに対しては、アメリカがあくまで拒否権を投じた。他方、三選をめざすワルトハイム事務総長については、第三世界から候補を出すべきだとする中国が、これまた拒否権で応じた。五年の任期を二人の候補が折半する妥協案も、理事会全員の受けいれるところとならなかった。このデッドロックのなかで、突如としてペルーのペレスーデクェヤルの名が浮上し、五常任理事国をふくむ理事会全員の推薦を受けた。国連総会も満場一致でかれの任命を承認した。

デクェヤルは、豊かな経験をもつペルー有数の外交官で、各国在勤の大使、外務次官などを歴任したのち、国連事務総長のキプロス特使、特別政治担当事務次長などを務めた。地味で手堅い実務派外交官の印象が強かった。バッハ、ベートーベンなどの音楽を好み、プルーストやセルバンテスの文学を愛するかれは、典型的な西欧型教養人といってよかった。彼の強みは、自ら選挙運動をした結果として事務総長の職についたのではないことだった。また、かれは一期五年以上を求める意志がないことを表明した。

デクエヤルのすぐれた外交手腕、とくに絶妙なタイヤこングは、就任数ヵ月後に発生したフォークランド紛争の時に発揮された。かれの外交調停を求める声が高かったにもかかわらず、ヘイグ米国務長官の調停の推移をかれはじっと見守り、それが失敗に終ったことが判明してから、自分の出番がきたと見て、イギリスとアルゼンチン両国の調停にのりだした。フォークランド諸島を国連の暫定的統治下において、国連傘下に外交交渉をつづけ最終的解決を求めるというかれの調停案は、九分九厘成功したかに見えたが、急転回する軍事情勢とアルゼンチン軍事政権のかたくなさのために、結局実りを結ばなかった。

このほか、ナミビア、キプロス、イランーイラク、アフガユスタン、カンボジアなどに関し、デクェヤルは冷静に、しかもねばり強く仲介の道を探った。キフロスに関しては一九八五年一月、ギリシャ系とトルJ系住民代表の調停に成功するわずかのところまでいった。イラン・イラク紛争については、部分的停戦、化学兵器不使用、捕虜の待遇、国連監視団の派遣などに関し進捗があった。かれのアプローチの公正さと緻密さ、問題解決への執念と共存している客観性は、立場のちがう人々からも高く評価されている。またマスJミに対して歯に衣きせず率直なもののいい方をする点が特徴だといえよう。


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一九七一年秋、病身のウ・タントが再任を求めないと声明したとき、フィンランドの国連大使ヤコブセンはいちはやく立候補を声明した。ほかに数人の政治家や外交官の名前が下馬評にあがったが、オーストリアの国連大使ワルトハイムも出馬の意志があることを明らかにしていた。安保理事会でヤブセンとアルゼンチンの国連大使デーロサはそれぞれ九票以上を集めたが、中国やソ連の拒否権に敗れ、数回の投票の後ワルトハイムが、賛成一二反対一、棄権三で理事会の推薦を得たので、二一月二二日の総会はかれを第四代事務総長に任命した。ちょうど五三歳の誕生日を迎えていたワルトハイムは、外務大臣を一回、国連大使を前後二回経験し、一九七〇年には自国の大統領選挙に立候補して小差で敗れた。二六年間の外交官経験の持主であるこのチエコ系オーストリア人は、多民族国家の伝統的な勢力均衡政策をよく身につけているといってよかった。

ワルトハイムは事務総長に就任するやいなや、数多くの国連加盟国を精力的に歴訪して各国の指導者と懇談しfまた沈滞した事務局上層部の人事の更新を断行した。また八〇〇〇万ドルにおよぶ国連の累積赤字の解消にも熱意をみせた。ナミビア、ベトナムなどの問題では事務総長として積極的に貢献する意欲を見せたが、問題の根が深すぎることと関係当事国が冷淡だっだため、あまり効果のある行動はとれなかった。

かれは、一九七二年秋の総会にテロリズムの問題をとりあげることを提案したが、問題の複雑さと根まわしの不足のため、総会はこれといった結論に達することができなかった。しかし中東国連緊急軍の結成、資源と開発に関する特別総会、再発したキプロス危機などでのワルトハイムの疲れを知らない多面的な活躍ぶりは注目をあびた。国連を国際政局の中心におこうとする、かれの情熱と野心、またそれを実現するために東介函‥走して休むことを知らない行動的な性格は、高く評価された。

一九七七年に再任されてからも、ワルトハイムは国連を国際政治の中心にかくために、精力的に動いた。一九八〇年初頭、かれは生命の危険を‐して革命ドのテヘランに飛び、人質として捕えられていたアメリカ外交官の釈放をとりっけようと努力した。翌年メキシつのカンクンで開催された南北サミットでは、南側一四ヵ国と北側八ヵ国の首脳が集り、「国連包括交渉」を最大の焦点としたが、ワルトハイムは会議の分裂を回避するために、メキシコ大統領とカナダ首相の議長団を助け、妥協を見出すのに力を貸した。一九八〇年九月、イランーイラク戦争の勃発に際して、ワルトハイムはいちはやく、両国に自制をうながし、外交交渉の席につくことを訴え、緊急安保理事会の開催を要請した。

かれの懸命の努力にもかかわらず、南北関係は好転しなかったし、多くの局地紛争も解決しなかった。保守化した北側の一部の国々では、ワルトハイム事務総長が発展途上国に好意的すぎるという批判が生れ、また中東紛争についてアラブ諸国寄りであるという見方もあった。こうした冷淡な雰囲気に焦立つたかれは、あくまでも国連への執念を捨てず、仕事の鬼に終始した。


ウ・タントは毎朝のひとときを瞑想に過す敬虔な仏教信者たった。高校教師や、ウースーーの反ファシスト人民自由連盟の広報担当官、ビルマ政府の官房計両局長などをした経歴の持主だった。穏やかで真摯な人柄の持主であったが、記者会見などでは自分の信念をずばりと表明する傾向かおるため、一部から非難された。事務総長の職務については、ハマショルドの積極的な遺産を継承することを、かれは明らかにした。事実ウ・タントは、単なる国連の行政長官たるにとどまらず、必要な際は国際政治のまっただなかに入って行動することを示した。かれは事務総長が加盟国によってしばしば便利な蹟罪の山羊として使われるのを慨嘆したが、ビアフラや東パキスタン(のちのバングラテン二の悲劇にかんがみて、平和への脅威について、事務総長に安保理事会の注意を喚起する権限を与えている憲章第九九条を強化して、人道にかかおる非常時令人類の福祉や人間環境に関する脅威などについても、発言する権限を与えられるべきではないかと提言した。

ハマショルドとウ・タントとを比較すると、ハマシE’ルドは国連のなかの特定のどのグループをも背景として行動することなく、国際公務員としての独立の立場から国際情勢を判断し、その鋭利な知性で事務総長の役割を不断に理論づけていた(もっとも一九六〇年秋、ソ連による非難に当面した時には、ハマショルドは国連が小国のために存在しているし、自分はその利益を守るために総長の任にととまっていると宣言したが)。他方ウ・クントは、東西両陣営のもつイデオロギー的排他性を痛烈に批判する一方、非同盟主義諸国の行動理念を自らのものにしていることを少しもかくさなかった。かれはビルマ国連代表だったときから、共産主義と西欧民主主義のもつイデオロギー的・十字軍的性格を嘆き、その平和共存を説くかたわら、世界のもっとも大きな問題として後進国の発展の問題があることを指摘していた。

事務総長になってからも、ウーラントは米ソの「ギブーアンドーテーク」による妥協をすすめ、冷戦の政治や軍事の問題を重視するよりも、国家間の富の不均等という南北問題が国際緊張の根源にあることを力説してやまなかった。ガーナ、キプロスなど約四〇ヵ国の非同盟諸国の要請を土台として、米ソのキューバをめぐる危機を核戦争の瀬戸ぎわから調停によって救うきっかけをつくったウ・タントの活動は、かれの冷戦への不信とその緩和への情熱を示していた。さらに一九六五年二月、ウ・ランドはベトナム戦争の拡大を憂慮し、関係諸国に軍事的解決を見限って外交交渉の場にかえることを訴えた。非同盟諸国によるアフリカ、ラテン・アメリカ、バルカン半島などに非核武装地帯をつくる案を、ウータントは大国の意向におかまいなく両手をあげて歓迎した。ハマショルドもウ・タントと同じく、新興国の国際社会編入を心かちょろこび、米ソの「恐怖による均衡」に対して批判的だった。しかし、冷戦の空しさと、それより大事なものとして先進国と後進国との格差の是正をとりあげる点て、ウ・タントの発言の方がより大胆なことは確かたった。

その発言で非同盟主義への共感をかくさない一方、冷静で現実的な政治家としてのウ・タントは、国連の実際活動において大国の支持をとりっけることがいかに重要であるかを十分に知っていた。ハマショルドをあれほど悩ましたコンゴ問題を収拾するにあたって、かれはアジア、アフリカ諸国の意向に従ってカタンガ州で強硬政策に出る一方では、米ソの見解を慎重に考慮しながら国連軍の段階的撤退の道を探った。かれが大国の支持をまって行動しようとする大きな原因は、国連が当面する財政危機だったのであり、国連夕算のなかば近くを負担している米ソ両国の了解なしに国連の多数派が行動しようとしても、財政的にゆきづまってしまうからだった。

西イリアン問題、イェーメン国境問題、マレーシア消介団派遣にあたって、ウ・タントは当事国から共同で経費を分担する約東をとりつけ、国連に負担がかからないように工夫した。またキプロス問題では、国連軍を維持するために自発的な拠出金の道を探った。財政問題をかかえたかれには、ハマショルドのように必要なときいつでも国連平和軍を設立する余裕があたえられていなかった。また、ウーラントの外交交渉の方法は、できるだけ有能な補佐官や代理を活用する点にあった。西イリアンでは老練なアメリカ退役外交官のバンカーを総長の代理に任命して協定の具体的細目をつくらせたし、中東問題ではスウェーデンのヤーリングを特使として活用した。このようにして、権限を、ひいてはその結果に対する責任を移譲することにより、事務総長個人に責任を集中することによっておこりうる鎚鉄や混乱の可能性を避けるようにした。これは、すべての重荷をひとりでせおいこむハマショルドとは異なるやり方たった。ウ・タントは後年において病身のためもあってやや精彩なく、とくに国連行政の面で迫力を欠いていたことは否定できない。

  
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