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非同盟主義への共感
ウ・タントは毎朝のひとときを瞑想に過す敬虔な仏教信者たった。高校教師や、ウースーーの反ファシスト人民自由連盟の広報担当官、ビルマ政府の官房計両局長などをした経歴の持主だった。穏やかで真摯な人柄の持主であったが、記者会見などでは自分の信念をずばりと表明する傾向かおるため、一部から非難された。事務総長の職務については、ハマショルドの積極的な遺産を継承することを、かれは明らかにした。事実ウ・タントは、単なる国連の行政長官たるにとどまらず、必要な際は国際政治のまっただなかに入って行動することを示した。かれは事務総長が加盟国によってしばしば便利な蹟罪の山羊として使われるのを慨嘆したが、ビアフラや東パキスタン(のちのバングラテン二の悲劇にかんがみて、平和への脅威について、事務総長に安保理事会の注意を喚起する権限を与えている憲章第九九条を強化して、人道にかかおる非常時令人類の福祉や人間環境に関する脅威などについても、発言する権限を与えられるべきではないかと提言した。
ハマショルドとウ・タントとを比較すると、ハマシE’ルドは国連のなかの特定のどのグループをも背景として行動することなく、国際公務員としての独立の立場から国際情勢を判断し、その鋭利な知性で事務総長の役割を不断に理論づけていた(もっとも一九六〇年秋、ソ連による非難に当面した時には、ハマショルドは国連が小国のために存在しているし、自分はその利益を守るために総長の任にととまっていると宣言したが)。他方ウ・クントは、東西両陣営のもつイデオロギー的排他性を痛烈に批判する一方、非同盟主義諸国の行動理念を自らのものにしていることを少しもかくさなかった。かれはビルマ国連代表だったときから、共産主義と西欧民主主義のもつイデオロギー的・十字軍的性格を嘆き、その平和共存を説くかたわら、世界のもっとも大きな問題として後進国の発展の問題があることを指摘していた。
事務総長になってからも、ウーラントは米ソの「ギブーアンドーテーク」による妥協をすすめ、冷戦の政治や軍事の問題を重視するよりも、国家間の富の不均等という南北問題が国際緊張の根源にあることを力説してやまなかった。ガーナ、キプロスなど約四〇ヵ国の非同盟諸国の要請を土台として、米ソのキューバをめぐる危機を核戦争の瀬戸ぎわから調停によって救うきっかけをつくったウ・タントの活動は、かれの冷戦への不信とその緩和への情熱を示していた。さらに一九六五年二月、ウ・ランドはベトナム戦争の拡大を憂慮し、関係諸国に軍事的解決を見限って外交交渉の場にかえることを訴えた。非同盟諸国によるアフリカ、ラテン・アメリカ、バルカン半島などに非核武装地帯をつくる案を、ウータントは大国の意向におかまいなく両手をあげて歓迎した。ハマショルドもウ・タントと同じく、新興国の国際社会編入を心かちょろこび、米ソの「恐怖による均衡」に対して批判的だった。しかし、冷戦の空しさと、それより大事なものとして先進国と後進国との格差の是正をとりあげる点て、ウ・タントの発言の方がより大胆なことは確かたった。
その発言で非同盟主義への共感をかくさない一方、冷静で現実的な政治家としてのウ・タントは、国連の実際活動において大国の支持をとりっけることがいかに重要であるかを十分に知っていた。ハマショルドをあれほど悩ましたコンゴ問題を収拾するにあたって、かれはアジア、アフリカ諸国の意向に従ってカタンガ州で強硬政策に出る一方では、米ソの見解を慎重に考慮しながら国連軍の段階的撤退の道を探った。かれが大国の支持をまって行動しようとする大きな原因は、国連が当面する財政危機だったのであり、国連夕算のなかば近くを負担している米ソ両国の了解なしに国連の多数派が行動しようとしても、財政的にゆきづまってしまうからだった。
西イリアン問題、イェーメン国境問題、マレーシア消介団派遣にあたって、ウ・タントは当事国から共同で経費を分担する約東をとりつけ、国連に負担がかからないように工夫した。またキプロス問題では、国連軍を維持するために自発的な拠出金の道を探った。財政問題をかかえたかれには、ハマショルドのように必要なときいつでも国連平和軍を設立する余裕があたえられていなかった。また、ウーラントの外交交渉の方法は、できるだけ有能な補佐官や代理を活用する点にあった。西イリアンでは老練なアメリカ退役外交官のバンカーを総長の代理に任命して協定の具体的細目をつくらせたし、中東問題ではスウェーデンのヤーリングを特使として活用した。このようにして、権限を、ひいてはその結果に対する責任を移譲することにより、事務総長個人に責任を集中することによっておこりうる鎚鉄や混乱の可能性を避けるようにした。これは、すべての重荷をひとりでせおいこむハマショルドとは異なるやり方たった。ウ・タントは後年において病身のためもあってやや精彩なく、とくに国連行政の面で迫力を欠いていたことは否定できない。
ハマショルドとウ・タントとを比較すると、ハマシE’ルドは国連のなかの特定のどのグループをも背景として行動することなく、国際公務員としての独立の立場から国際情勢を判断し、その鋭利な知性で事務総長の役割を不断に理論づけていた(もっとも一九六〇年秋、ソ連による非難に当面した時には、ハマショルドは国連が小国のために存在しているし、自分はその利益を守るために総長の任にととまっていると宣言したが)。他方ウ・クントは、東西両陣営のもつイデオロギー的排他性を痛烈に批判する一方、非同盟主義諸国の行動理念を自らのものにしていることを少しもかくさなかった。かれはビルマ国連代表だったときから、共産主義と西欧民主主義のもつイデオロギー的・十字軍的性格を嘆き、その平和共存を説くかたわら、世界のもっとも大きな問題として後進国の発展の問題があることを指摘していた。
事務総長になってからも、ウーラントは米ソの「ギブーアンドーテーク」による妥協をすすめ、冷戦の政治や軍事の問題を重視するよりも、国家間の富の不均等という南北問題が国際緊張の根源にあることを力説してやまなかった。ガーナ、キプロスなど約四〇ヵ国の非同盟諸国の要請を土台として、米ソのキューバをめぐる危機を核戦争の瀬戸ぎわから調停によって救うきっかけをつくったウ・タントの活動は、かれの冷戦への不信とその緩和への情熱を示していた。さらに一九六五年二月、ウ・ランドはベトナム戦争の拡大を憂慮し、関係諸国に軍事的解決を見限って外交交渉の場にかえることを訴えた。非同盟諸国によるアフリカ、ラテン・アメリカ、バルカン半島などに非核武装地帯をつくる案を、ウータントは大国の意向におかまいなく両手をあげて歓迎した。ハマショルドもウ・タントと同じく、新興国の国際社会編入を心かちょろこび、米ソの「恐怖による均衡」に対して批判的だった。しかし、冷戦の空しさと、それより大事なものとして先進国と後進国との格差の是正をとりあげる点て、ウ・タントの発言の方がより大胆なことは確かたった。
その発言で非同盟主義への共感をかくさない一方、冷静で現実的な政治家としてのウ・タントは、国連の実際活動において大国の支持をとりっけることがいかに重要であるかを十分に知っていた。ハマショルドをあれほど悩ましたコンゴ問題を収拾するにあたって、かれはアジア、アフリカ諸国の意向に従ってカタンガ州で強硬政策に出る一方では、米ソの見解を慎重に考慮しながら国連軍の段階的撤退の道を探った。かれが大国の支持をまって行動しようとする大きな原因は、国連が当面する財政危機だったのであり、国連夕算のなかば近くを負担している米ソ両国の了解なしに国連の多数派が行動しようとしても、財政的にゆきづまってしまうからだった。
西イリアン問題、イェーメン国境問題、マレーシア消介団派遣にあたって、ウ・タントは当事国から共同で経費を分担する約東をとりつけ、国連に負担がかからないように工夫した。またキプロス問題では、国連軍を維持するために自発的な拠出金の道を探った。財政問題をかかえたかれには、ハマショルドのように必要なときいつでも国連平和軍を設立する余裕があたえられていなかった。また、ウーラントの外交交渉の方法は、できるだけ有能な補佐官や代理を活用する点にあった。西イリアンでは老練なアメリカ退役外交官のバンカーを総長の代理に任命して協定の具体的細目をつくらせたし、中東問題ではスウェーデンのヤーリングを特使として活用した。このようにして、権限を、ひいてはその結果に対する責任を移譲することにより、事務総長個人に責任を集中することによっておこりうる鎚鉄や混乱の可能性を避けるようにした。これは、すべての重荷をひとりでせおいこむハマショルドとは異なるやり方たった。ウ・タントは後年において病身のためもあってやや精彩なく、とくに国連行政の面で迫力を欠いていたことは否定できない。
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