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モンローの他殺説
一九四四年、夫が留守のあいだに、彼女の人生に大きな転機が訪れた。陸軍報道班員のデイヴィッドーカナヴァーというカメラマンが、軍需工場で働いている女性たちの写真を撮るために、マリリンが働いていた工場を訪れたのだ。このカナヴァーの直属の上司が、はるか後年(一九八一年)、アメリカ大統領になったロナルドーレーガン大尉だった。

このときの撮影で、カナヴァーはマリリンに目をつけ、「君は工場で働くより、雑誌の表紙を飾るほうが似合っている」といって、マリリンをモデルの仕事に誘った。当時、工場で一日十時間の労働で二十ドルを稼いでいたマリリンは、一時間で五ドルのポケットマネーが手に入るその仕事に飛びついた。

そして、カナヴァーの撮った写真の何枚かが、モデルーエージェンシーのデスクに届けられ、マリリンのカバーガールとしての人生が始まることになったのである。彼女はたちまちのうちにモデルとして成功し、『スワンク』『サー』『ピーク』といったセクシーなピンナップ写真を売り物にした雑誌に彼女の写真が次々に掲載された。

夫が戦争から帰ってくる頃には、マリリンはすでに工場の仕事をやめていた。彼女は、女優になる夢を描いていた。二十歳の誕生日を迎えた一九四六年、彼女は、ジムードウアティと離婚し、大部屋女優として週給百二十五ドルで二十世紀フォックスと契約した。

この頃、彼女は、フリーランスライターのロバートースラッツアーという人物と付き合い、スラッツアー自身の話によれば、二人は付き合いはじめてから六年後の一九五二年十月、メキシコのティフアナで結婚した。だが、その頃はちょうどマリリンの人気が出かかっていたときだったためにマリリンの撮影所から圧力がかかり、二人は撮影所側の意向に逆らうことができずに、だったの三日間で結婚を解消せざるをえなかった。

もしこの話が本当なら、スラッツアーはマリリンーモンローの二番目の夫ということになるが、事の真偽はいまでもまだわかっていない。彼は一九七四年、自称マリリンーモンローの二番目の夫として『マリリンーモンローの人生と奇妙な死』という本を書き、マリリンはロバートーケネディと情事の関係をもったあげくに殺された、と主張した。この本は、出版当初はほとんど誰にも見向きもされなかったが、その後、モンローの他殺説が広まり、ケネディ兄弟をめぐるスキャンダルの暴露が激しさを増すと、彼はふたたび、『マリリンーモンロー 他殺の証明』という本を書いて、自説を繰り返した。
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